1998年5月
韓国・全州の朝


「一緒に全州へ行かないか?」
 飛行機の中で、隣の席のおじいさんから不意のお誘い。私は即答せず、言葉を濁したり、あいまいな返事をして回答を引き延ばす。誘われたことは素直にうれしい。けれど、本当に付いていっていいのだろうか?

目的の劇場公演を観るために、私にしては珍しく、今回は用意周到な旅行計画を立てていた。が、主催者の都合により公演が1ヵ月先に延期。せっかく取った航空券と休暇をふいにしたくはなかったので、そのままソウル行きの飛行機に搭乗した。

振り返ればこの日は不思議と運が良かった。
 待ち時間なしで空港行きのバスに乗れたり、出国のイミグレはガラガラで、あっという間に通り抜けられたし、何より、飛行機の搭乗待合ロビーで、韓国人の女性から声をかけてもらい、ハングルと英語の2ヵ国語でコミュニケーションを楽しむことができた。そして、たまたま隣の席だったおじいさんから「全州へ来ないか?」と誘われている。

飛行機の離陸前、機内誌をパラパラめくっていると、隣の席のおじいさんが、座席ベルトのつけ方を教えて欲しいと聞いてきた。きっかけは、たぶん、これだったと思う。あと、私が通路側でおじいさんが窓側の座席だったので、おじいさんが機内サービスを受けるためには必ず私が間に入って中継してドリンクや食器トレーなどを手渡しをしていたことがほとんどだから、そういう部分で会話につながりやすかったのだと思う。

おじいさんは韓国人で、日本の時代劇が好きで、昨日は浅草でお芝居を見て来たという。お土産品らしい荷物もたくさんあり、ひとつひとつ丁寧に説明をしてくれる。飛行機が離陸後、そのおじいさんは、今日はどこへ行くの? 観光? どこに泊まるの? ひとり? 結婚は?などなど、いろいろな質問を私にぶつけて来る。

私はおじいさんに、「どこへ行くの?」と聞いてみると、「全州(チョンジュ)へ里帰りする」という答えが返ってきた。現在、おじいさんはアメリカに住んでいて、韓国の家は息子さんが継いでいるとのこと。おじいさんはそこへ3日間ほど帰省するらしい。
 全州という場所がわからなかった私は、機内誌の韓国全土が載っている地図ページを開いて、「全州って、どこ?」と聞いてみる。そして「どんなところ?」と私が言葉を続けると、おじいさんは地図を指さしてから「何もない田舎町だよ」と笑って答えた。

そうした会話の流れからか、今、私はおじいさんから「一緒に全州へ行かないか?」と誘われている。

最初は話の流れでその勢いというか、冗談みたいなものかと思っていたけれど、おじいさんからの再三にわたる「お誘い」に、私の気持ちは揺れ動く。こういう機会は滅多にない。でも、何かあったら嫌だし……。

私は旅の出会いの「難しさ」にとても悩んでいた。おじいさんと会話を続けながら、できる限り回答を先延ばし。心の葛藤に苦しみながら、ソウルの空港着陸間近のアナウンスがあるまで、とにかく返事を引き延ばした。

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