2007年2月
中国の天安門広場に立つ


「あれが天安門広場……」
私は心の中でつぶやいていた。

清朝時代の街並みを再現したレトロな琉璃廠から、北京の伝統的な家屋である四合院作りの町並みの胡同を通り抜けて前門まで歩いて来た。東西500m、南北800mに広がる目標は、遠くからでも「それ」とわかるところだった。

──1989年6月4日未明、天安門広場は血に染まった。

装甲車が人民を押し潰していくニュース映像が頭の中によみがえる。人が潰れる様子を確実に捉えた映像ではないけれど、逃げ惑う民衆の群れの中を装甲車が、でこぼこ道を進むように、上下に揺れながら突き進む映像は、そのものだと確信させた。

実際に天安門広場へ足を踏み入れて、やはり地面が平らであることを確認する。

──あのとき、この広場には、どれだけ多くの人民が集まって、どのくらいの人民が殺されたのだろうか。

ほんの一瞬、自分の足元から血痕と、空の薬莢の風景が広がり、目の前には灰色の煙、鼻をつく火薬の臭いが立ち込めるイメージに包まれる。

天安門広場にいる人民は、ほとんどが地方から出てきた人たちであることが、外国人の私でさえ見て取れた。中国は広い。地方の人民の中には、一生に一度、この地を訪れることができるかどうかという人や、天安門で日の出と共に行われる中国旗の掲揚式を見ることが夢であるという人も多くいるという。この広場にいる北京市民は、おそらく、凧をあげる人と物売りぐらいだろう。広場の中を行き交う人民たちを眺めながら、仲間たちと一緒に私はそぞろ歩きする。

「死体を飾っておくなんて、正直、あまりいい趣味とは思えんが…」
私はそう言いつつも、毛沢東の遺体が安置されている毛主席紀念堂の中に入る。照明が落とされた堂内は暗く、棺だけライトアップされている。あかりの中に浮かび上がっているのは毛沢東の顔。

──個人崇拝は必要なのです。少しばかりは……。

あるテレビ番組で、かつてアメリカのジャーナリストに毛沢東がそう語ったという話を思い出す。天安門楼上から中華人民共和国の設立を宣言した毛沢東という存在は、人民にとって、一体どのような存在なのだろう? たくさんの人民と一緒に棺のまわりを一周しながら、私はそんなことを考えていた。

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