1996年5月
宮古島・楽園の憂鬱


友人の結婚式に招待されて、5年振りに宮古島を訪れた。東京で知り合った友人の彼と顔を合わせるのは2年振り。島の公民館で行われた披露宴会場で、新郎となった彼と久しぶりに対面した。結婚式と披露宴は宮古島式で執り行われ、このとき初めて「おとーり」の洗礼を受ける。彼と言葉を交わす前に酔い潰れ、滞在初日から記憶をなくす。

酔いからさめて目を開けると、私はホテルのベッドにいた。誰かが部屋まで運んでくれたのだろう。ぼんやりと昨日のことを思い出してみようと試みたけど、全く思い出せなくて少し落ち込んだ。意識がハッキリしてきて、突然、自分の酒臭さが鼻につき、シャワーを浴びようと体を起こす。目の前の大きな窓がキラキラと眩しい。明るい方へ誘われて、ふらふらと窓からの景色を眺めに歩いて行くと、目の前はエメラルドグリーンの美しい海が広がっていた。

窓を開けて、しばらくベランダで海の音と海の香り、そして風を頬に受けながら、意識を徐々に覚醒させていく。シャワーを浴び、スッキリしたところで、目の前にあるエメラルドグリーンの美しい海へと降りて行き、しばらくの間、波打ち際の真っ白な砂浜の上を歩いて過ごす。

1時間くらい、ゆっくりぼんやりと歩いただろうか、気が付くと、同じ波打ち際の延長線の向こうから、友人とそのパートナーが、軽く手を振りながら歩いてきた。

友人の彼は、島に戻る前は東京で写真家を目指すクリエイターだった。

彼は5年前に母親が倒れたことをきっかけに、年に2度は島に帰るようになり、その間に両親のこと、血のつながりの大切さ、人間関係等について考え始め、また、それと同時に帰郷を重ねる度に、徐々にではあるけれど、変わって行く島の風景、失われていく島の言葉(宮古方言)が気になり始めた。

「島の言葉が失われていくことは、島の心まで失われてしまうような気がする……」

島の高校生や子供たちと島の言葉で話しかけると、聞くことは出来ても話せない、言葉がわからないという子がほとんど。島ではちょうど、本土式のホテルや結婚式場などの建設話が具体的になり、本土から人が流れ、島の中で標準語をよく耳にするようになって、これから少しずつ薄れていくであろう島の文化に対して、彼の中で、強いこだわりが出てきたという。

「東京では自分なりに一生懸命仕事もしたと思うし、いろんな人と出会ったりと、すごく楽しい時代だった。なんとか生活していけたし。でも、じゃあ、自分は本当は何がしたい、出来るだろうって考えたとき、東京を離れるギリギリまで、それがわからなかった」

せわしい都会から帰ってくると、島はのんびりしていて良いと彼は言う。これからは島で畑仕事をしながら、失われていくであろうものを写真に収めていけたらと、良い意味での諦め口調で、エメラルドグリーンの海の向こうを眺めながら私に語った姿が印象に残った。

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