2001年1月
羽田空港、長崎までの遠い道のり


長崎行きの欠航便チケットを今度は福岡行きに替えてもらう。ビジネス利用の多い福岡行きなら便数も多く、夜遅くまで飛んでいるはずだ。まずは雪の東京から脱出しなくちゃいけない。同時に、帰りの長崎からの羽田便を最終便へ振り替えてもらう手続きをする。これは欠航で潰れてしまった長崎の滞在時間をできるだけ長く取り戻すため。そして私は空港内をせわしく歩き、航空各社の運行状況を調べだす。自分自身のアンテナを最大限に広げ、思考が全開で働き出した。

ところが、私が握り締めているチケットの航空会社は、どこよりも早く全便欠航を決めてしまう。この全便欠航のアナウンスが流れてから、今まで多くの人々でごった返していた空港内は静かになる。大半の人々が今日のフライトをあきらめ、出発ロビーの混雑が次第に緩和されていく。

──まだだ!全便欠航を決めたのは航空会社1社だけだ!

チケットを払い戻し、別会社の発券カウンターに急いで向かう。しかし、心の中では不安は大きくなっていく。ダメかもしれないという気持ちが強くなることを認めたくないために、何かをしないといられない。あきらめ気分になりながらも発券カウンターで「福岡行きは飛ぶのか?」ということを受付嬢に聞いてみる。カウンターの後ろにかかっている掲示板には運行を見合わせている旨の表示がされたままだった。

私の問いに受付嬢は何かを思い出したかのように、「ちょっと待てください」と少し時間を空けて端末を叩き出す。

すると、「ついさっきOKになったようです」という返答に、正直少し拍子抜けしながらも、すかさずチケットの発券を依頼する私。早々とチェックインを済ませ、搭乗ゲート前のロビーで待つことにする。

出発時刻は午後6時。雪はかなり弱まってきたが風がまだ強いらしい。 搭乗予定時刻はどんどん遅れ、搭乗ゲート前の電光掲示板には「滑走路凍結」の文字が表示される。目の前に飛行機があるのに飛び立てない。どうしようもない苛立ちを覚え、奥歯をギュッと噛み締める。今の私に出来ることは、祈ることと待つことだけ。これしか出来ないってことが、こんなに苦しいことだったなんて……。長崎に集まっている友人たちを思いつつ、待たせてしまっている自分自身をさらに許せなくなる。嫌悪感に潰されそう。

一時的に風が弱まったとして飛行機への搭乗が開始され、私は機内で願いながら待ち続ける。でも、なかなか飛行機は動かない。棺桶の中にでもいる気分になってくる。自分自身に余裕がなくて、目をつぶり腕を組んでジッと席に座って待ち続ける。しばらくたって、機長から滑走路凍結と管制塔からの指示を待っている旨の機内アナウンスが流れ出す。ダメかもしれない……あきらめの気持ちが大きくなってくる。

ところが、私のあきらめの気持ちとは反対に飛行機は滑走路までゆっくり動き出す。管制塔からの離陸許可待ちであることが、機長からのアナウンスで知らされる。問題は滑走路の状態と強い風か。ここまで飛行機が動いたということは、風だけが障害なのかもしれない。今まで余裕がなかった私なのに、このときは心静かに席で座り、不思議と「期待とあきらめ」が同居していた。

飛行機に乗り込んでから1時間後、ようやく飛行機は離陸を始める。機体が滑走路から浮き上がる瞬間、心の中で「飛べ!」と叫ぶ。無事に飛行機が飛び立ってホッと胸をなでおろし、安堵感に包まれる。あとは福岡に着いてからだ。

福岡空港に着いたのは午後の9時近く。 福岡から長崎行きの高速バスがあるに違いないと、急いで空港のインフォメーションまで走り込む。長崎行きのバスは国際線ターミナルにあると聞き、ターミナルへ連絡しているバスに駆け込み乗車する。タイミングよく、長崎にいる友人から連絡が入り、福岡空港に今いることを報告。現地での宿は友人たちが手配してくれるという。うれしい涙が溢れてくる。

長崎行きのバスに揺られること2時間くらい、真夜中の長崎で友人たちに出迎えられる。一緒に見るはずだった夜の長崎ランタン祭りを、デジタルカメラの液晶画面でプレビューして見せてくれる友人たち。心配かけてスマンと思いながらも、あたたかい出迎えに、またちょっと目の前が曇ってきた私だった。

<2001年3月掲載>