1998年3月
東京・鳥越の佃煮と焼きサバの味


浅草に着いた。ここから待ち合わせの場所まで地下鉄を使って向かってもよかったのだけど、待ち合わせの時間まで余裕がある。それなので先に宿へチェックインしておこう、そしてそれからどう過ごそう?と考えていた。それでも時間は潰せそうにない。なんとなく中途半端な時間だったのだ。時間を潰すあてもなく、なんとなく浅草界隈をぶらつく。雷門の前で、ボーッと道路の向こうを見る。道路の案内標識板に、この場所と宿の中間くらいにある地名が記されている。宿へ歩いて行けば、たぶん1時間くらいは潰せるだろう……。私は漠然とそう思っただけで宿まで歩いて移動することに決めた。

浅草は観光客や行き交う人たちで賑わっていたけれど、道路1本隔ててしまうと人通りは閑散としていた。裏通りの路地に入ってみる。すると、今まで気にならなかった浅草の雑踏と車の騒音が思いのほか気になり出す。「路地1本隔てただけで、静かさがずいぶん違うものだなぁ…」しばらくこの道を奥に歩いて行くと、まさに閑静な住宅街といった感じになってくる。

信号待ちで交差点前に立っていると、後ろの方から韓国語が聞こえてくる。交差点を渡ると、今度は中国語が聞こえてくる。このあたりを住み家としている外国人が多いのかな? そう思えてくると、なんとなくこのあたりの街の雰囲気が違うような気がしてくる。しばらく歩いて行くと、やがて鮮やかな飾りが目立つ通りが見えてくる。鮮やかと言っても、現代風の鮮やかさではなく、それは私の記憶の中では20年前の鮮やかさだった。

「おかず横丁」と書かれたその商店街を歩いてみると、とても懐かしい思いがよみがえる。私の20年前の記憶を呼び覚まし、一瞬の間、私を過去へタイムスリップさせてくれる。「ああ、こんな感じだったかなぁ……」と、初めて訪れたこの横丁に、ひとつひとつ思い出を重ね合わせてしまう。横丁のお店はシャッターが閉まっているところも多かったが、その名の通り「おかず」のお店が軒を並べる。しかも、売るだけじゃなく、そのお店で食べることも出来るように、テーブルと椅子が用意されているところもあった。

その横丁の中である佃煮屋さんが私の目が留まる。佃煮という商品の見せ方・盛り方・盛っているお皿など、懐かしさと珍しさに惹かれてしまった。あまり見かけないディスプレイ方法ではあるが、現代風なのか昔風なのかよくわからない。そういう意味では今までに見たことがない新しい雰囲気に感嘆する。佃煮のディスプレイを眺めながら、どの佃煮を買ってみようかと楽しく悩む。今まで佃煮を買ったことがないのだけれど、もの珍しさに選んでみる。

佃煮屋さんのお店の中を一言で表すと「古くて薄暗い」。でもこの「アンティーク」には味がある。昔からの雰囲気があり、時間がずっと続いているといった感じ。店の奥には佃煮作りに使われているであろう調理器具などが見え、薄暗さと絶妙にマッチしている。そして、お店の中は佃煮の甘い香り。お店を切り盛りするご夫婦と私は相談しながら、購入する佃煮を決めることにした。佃煮のことはわからないという理由と、あと、このご夫婦と会話をしてみたくなったのだ。

佃煮屋さんをあとにして、横丁をぶらぶらする。魚屋さんのおいしそうな焼き魚にも惹かれたものの、一度はそこを通り過ぎる。衝動買いはイカンとか、買いすぎてしまうかも知れないとか自分に言い聞かせながら、一度は横丁の出口までたどり着く。しかし、やはりあの焼き魚は買っておこうと気持ちが変わり、魚屋さんまで戻ることに。燈色の裸電球の光が、焼き魚の色をいっそう美味しそうに照らし出し、なおかつ、あと1つしか残っていないという希少性に目がくらむ。これは是非とも手に入れなければならないという気持ちになってしまう。

魚屋のおばさんに、これは何の焼き魚?と聞いてみると、サバの焼き魚という答えが返ってきた。お店の横に焼けた金網とドラム缶が置いてある。これで魚を焼いているの?と聞くと、この道具でいつもこの場所で焼いていると答えが返ってくる。魚屋のおばさんは、お客さんが注文した魚をこの場で焼くこともあるそうだ。今でもこんな魚屋さんがあるなんて、驚きと懐かしさでいっぱいになる。「こういう魚屋さんは20年振りに見ましたよ」と声を掛ける。すると、魚屋のおばさんは、私にこんな言葉を返してきた。

「ここは、古い街並みでしょう。このあたりは戦争でも焼けなかったから、このまま残ってしまったのよ」昔、何かで見た記憶がある戦後の廃墟となった街の白黒スチールのイメージが思い浮かんできて、つい、この横丁の過去を想像してしまう。ああ、このおばさんは、そんな時代を見てきたのか、過ごしてきたのかとか……。次に返す言葉が思いつかず、私は少し沈黙してしまった。その間に魚屋のおばさんは、焼きサバを包んでくれる。まだ暖かい焼きサバを私は受け取り、「また思い出してここへ来てね」との言葉をかけてもらってこの横丁を立ち去った。

用事を済ませて宿に戻り、おかず横丁で買った佃煮と焼きサバをベットサイドに広げて食べる。不思議と焼きサバはまだ温かく、一口食べるごとに、魚屋のおばさんの言葉と、あの横丁のことを思い出して、ほろりとしながら食べ続ける。佃煮と焼きサバの味は、甘くて懐かしい味がした。

<1999年5月掲載>