1997年3月
沖縄基地の軍属の娘


町の半分以上が米軍施設という北谷町(ちゃたんちょう)を訪れた。町を貫く国道沿いのフェンスの中にはアメリカの基地が広がっている。このあたりの界隈は、英文字看板があちこちに並び、6車線の道路にはパームツリーの並木が続く。アメリカはこういうところなのだろうかと、ちょっと想像しながら歩いて過ごす。

宿を探して国道を歩いていると、フェンスに囲まれた米軍基地が目についた。日本国内にある米軍施設の75%が沖縄に集中しているらしく、基地周辺では絶えず航空機の爆音が聞こえてくる。私はただの観光客なので、沖縄らしさを感じるひとつの光景として映っているが、これは沖縄が抱える最も大きな問題で、ここがその日常なのだ。

嘉手納空軍基地がある隣町からバスに乗り、地元の人から勧められた宿がある北谷町へ入る。海岸線一帯に広がる公園を歩いていると、ローラースケートやダイビングを楽しむアメリカ人たちが多く、防波堤でビールを飲みながら過ごすのが、ここでのスタイルらしい。この防波堤にはウォールペインティングのアートが続き、それと平行しておしゃれなシーサイドカフェが続いている。そのなかで、1軒だけ、少し古ぼけたような喫茶店があり、私はその店の扉を開けた。

どことなくアットホームな印象の店内は、いわゆる“古き良き時代”というような言葉が似合うシンプルな喫茶店。カウンターの奥にはコップを拭いている女性がいる。
「こんにちは」と声をかけると、彼女は私を目の前のカウンター席に座るよう手招きで案内する。これはバックパッカースタイルだったからだろうか。
飲み物を注文したあと、「どこから来たの?」と質問される。はっきりとハーフとわかる美人の彼女は、その風貌に合わないきれいな日本語で話しかけてくる。

彼女の美貌と、そのきれいな言葉使いにうっとりしながら、何気ない会話を交わしてゆく。この喫茶店内の雰囲気は、彼女そのものの雰囲気と重なる錯覚を覚える。うまく言い表せないが、どこか優しく、そしてどこかもの悲しく感じる。不意に航空機の爆音が響く。

「うるさいでしょ」彼女は上目使いで私に話しかける。
「そうだね」私は思ったままの言葉を返す告げる。
「いつもこうなのよ」彼女は少し笑って答えてみせる。
それは、諦め、開き直り、それとも“当然なのよね”と言った感じにもとれる言葉。そして航空機の爆音が遠ざかる。

彼女の後ろには1枚の写真が食器棚に飾ってある。大勢の米軍兵士の集団に、1人だけ普段着姿の彼女が写っている。こうしてみると、写真の中の彼女は、あきらかに外国人に見える。

私は写真を指差して、「アメリカ人みたいだね」と、彼女に話しかける。
「アメリカ人なの。ここで生まれたけどね」と、彼女は答える。
「国籍、アメリカなんだ」と、わかってないのに、わかったようなオウム返しの返事をする私。沖縄で生まれ育ったのに、日本国籍じゃないの? 両親のどちらかがアメリカ人だから? 在日外国人?

ちょっと困惑している私の様子を見て、「私、基地に住んでるのよ。お父さんが軍人なの」と、日本人の私が見なれない身分証明証を見せてくれる。そこには、彼女の顔写真と「America」、「Pentagon」という文字、そして漢字で身分のところに「軍属」と記されている。

「アメリカ国籍なのは、軍属だから。3ヵ月後には、日本国籍に変えるけど」と、ごく普通に話す彼女。「国籍って、簡単に変えられるの?」と、無知な私は質問する。 彼女は、ていねいな言葉でその質問に答えてくれる。

アメリカの場合は、両親が外国人であっても、アメリカで生まれれば、自動的にアメリカ国籍が取得できるらしい。つまり、出生地が国籍となる。日本の場合、両親の国籍が子供の国籍となる。日本人の母親が沖縄の基地(アメリカ)で彼女を産んだため、20歳までは二重国籍が特例的に認められている。彼女本人が20歳になるまで、どちらかの国籍を選択する決まりになっているそうだ。

じゃあ、今まで、どうして二重国籍のままだったのだろう?
すると彼女は、「お父さんが、私自身に決めさせたかったから」と答える。

沖縄の米軍基地問題がニュースになっている今、私の中で複雑な思いが駆け巡った。

<1999年3月掲載>