1997年3月
はるか彼方、香港調嶺領
マカオで暮らす知人の情報では、半年くらい前に、そこに住む人たちは強制退去させられて、地元でもニュースになったという。以前は九龍島側からミニバスが運行されていたけれど、埋め立て工事が始まって、バスは廃止されてしまったらしい。
香港へ出発前の日本でも同じような情報を得ていたので、今回は香港島側の西湾河へ私は向かった。事前に入手していた香港の地図にも、西湾河の船着場には調景嶺行きの航路が記載されている。すでに船も廃止されてしまった可能性は高いけど、調景嶺の手前にはシーフードで有名な鯉魚門(三家村)がある。鯉魚門へ船で渡って海岸線を歩いて行けば、その先の調景嶺を見ることぐらいは出来るかもしれない──自分の行動を納得させるため、わずかな可能性を心の中でつぶやきながら香港島を移動した。
やはり調景嶺へ行く船は、もう出ていなかった。コンクリートブロックに囲まれた船の待合所らしかった建物には、ぼろぼろのシャッターが降りて廃墟と化している。予想していたこととはいえ、しばらく私は途方にくれてしまう。やがて西湾河の船着場には、鯉魚門(三家村)行きの船が到着。その船に私は乗り込んだ。
鯉魚門の鮮魚街を抜けると、九龍島と香港島の再接近地に整備された小さな公園、その先にはコンクリートの住居が建ち並ぶ。この村の住居はかなり古い。壁の色は路地と同じで、長い間、埃と日差しに焼かれたような乾いたグレーの色。さらに先を進んで歩くと小さな廟、そこをくぐり抜けると小さな集落。道は次第に道ではなくなり、住居と住居の間を縫うような小路を私は突き進んで行く。だんだん人の気配がなくなり、空になっている住居も目に付く。小さな港のような跡も見られる。目の前が開けてきたところで周囲を見渡すと、そこは廃墟の村だった。
おそらく、ここも埋め立てられるのだろう。明らかに村が人の手によって破壊された跡がある。重機やハンマーで崩したコンクリートの壁とその破片──この先に調景嶺がある──そう確信した瞬間、この荒れ果てた景色が再び目に入る。それでも少し、さらに調景嶺を目指して瓦礫の山を歩いて目指したが、その先の光景は……。眼下の廃墟と瓦礫の山。朽ち果てるサンパン船。漂流物のゴミとガラクタ。破壊された荒廃した風景。「調景嶺もこうなってしまったかもしれない」と、実感を伴った絶望感に初めて私は襲われる。その時、轟音と共に大きな影が、私の頭上を通過して行った。
鯉魚門から慎重に3時間かけて歩いてきた道も、帰りは1時間くらいで引き返せてしまった。誰もいない廃墟の村を抜け、人が生活をしている物音が聞こえたとき、私はとてもホッとしている自分を発見した。
鯉魚門(三家村)の船着場から、再び渡し船で西湾河へ戻る途中、頻繁に轟音と共に鯉魚門の真上あたりを飛ぶ飛行機を見て、帰国便は左側の窓際の席にしてもらおうと心に決めた。──ひょっとしたら空から調景嶺が見えるかもしれない──でも、私の思い付き通りにはならず、鯉魚門や廃墟になった村まではハッキリ見えたけど、そこから先は飛行機の翼の下が雲に覆われて、調景嶺を見ることは叶わなかったのだ。
「さて、台湾人の彼に、なんと言って報告しようかなぁ……」
飛行機のシートに深々と座り、私は腕を組んでしばらく言い訳を考えていた。