1996年5月
宮古島・楽園の憂鬱


畑仕事の帰り道に、戦前の貯水タンクのようなものと立て看板を発見する。実際、貯水タンクはほとんど地中に埋まっているのでタンク全体の形はわからない。その立て看板には、宮古島の歴史が記されている。

「ただでさえ農作物栽培には適していない痩せた土地で、その上、深刻な水不足があった。また、苛酷な人頭税、台風、旱魃、離島苦等の災害が島民を苦しめた」

──昔の人たちの生活から滲み出る知恵を、「あやぐ」を通して知ることが出来る。

時代の流れと共に生活様式は著しく変わり、古くから唄われてきた「あやぐ」や「言葉」が次第に失われつつある。貴重な文化を保存し、後世に伝えることが大切なのかなぁ……。

私自身がそんなことを思った瞬間、友人の彼が島に戻ることを決めた理由の1つが、ひょっとしてこの事と関係あるのかなと思い始めていた。

* * * * *

宮古島を離れる日、ホテルをチェックアウトしてから私は、歩いて空港を目指すことにした。自分の足で歩きながら、島の景色をこの目に焼き付けておきたいと思ったからだ。

地図なしで道路案内の標識を頼りに空港まで歩いて行こうとしたけれど、思いのほか標識が少なくて、途中、さとうきび畑が一面に広がる場所で私は途方に暮れてしまう。思ったように歩けない。私は空港がある方向へ歩いているのだろうか……。急に不安が大きくなる。まずは気持ちを落ち着かせようとペットボトルの水をひと口飲む。その後は残りの水を頭の上から浴びせかけて頭を冷やす。頭を振って水を弾き飛ばして深呼吸。呼吸を整え、瞳を閉じて、しばらくの間、心静かに風の音に耳を傾ける。葉と葉がこすれる音、さとうきび畑の間を抜ける風の音が聞こえてくる。その音の向こう側に、かすかなジェット機の音を感じ取る。空港に近づいていること知り、急に笑いがこみ上げてきた。安堵して再び歩き始めると、昨夜の出来事がフラッシュバックして、自問自答を繰り返す。

宮古島を離れる前夜、友人と再びお酒を交わし、そこで彼は、沖縄はどっち就かずの中途半端な地域だと私に説く。

「観光立県」でありながら、リゾート開発に明け暮れる。青い海と青い空、そして白い砂浜。それが無くなれば訪れる人がいなくなる。彼が危惧していることは、宮古島はきっと、沖縄本島と同じ道を歩むだろうということだった。土を忘れ、海を忘れ、祭りを忘れて、緩やかではあるけれど、「島の心」を少しずつ失ってきていると彼はいう。失いつつあるものを守こと、伝えていくこととは、一体何だろう。

私は一体何を口にすべきなのだろうか。本土から見た沖縄は間違いなくリゾート観光地。私は彼の友人ではあるけれど、本土から来た観光客なのだ。私は言葉が出てこなかった。彼はどういった答えを期待していたのだろうか。島の人たちは皆、明るさとおおらかさの裏側に、どんな不安を抱えていたのだろう。実はどんな気持ちで私たち観光客を迎えているのだろう……。本土から来た観光客の私には、それをたずねる勇気がなかった。そして彼はそれ以上何も言わない。ただ複雑な思いだけが残ってしまった。

人の気持ちを受け止められるだけの強さが欲しいと思った。広い心というか、気持ちの上での大きな器が欲しい。気を使うことなく本音で話せてもらえ、それに耐えられる精神の強さが欲しい。

この旅で、楽園が持つ複雑な想いに、少しは触れることができたのかな。そんなことを考えながら、私はジェット機の音が聞こえる方へと歩いて行った。

<1998年12月掲載>