まえがき(33歳の時に書いたごあいさつPart2)
――きっと、「愛しかった」のだと思う――
想い出は心の中に。2000年の夏に「形見分け」をしてもらってからもうすぐ5年。私にとっての「特別な彼女」の存在は、まるで、風のように、空気のように、当たり前として感じられ、今では「恋人」でなく「同志」という位置付けに近くなっている。愛しんで、戦って、守り、盾となり、屋根となってそばにいる感じ。現実にはもう存在しないけれど、代わりは誰にもできないと思う。でも、本当はその役、私がなりたかった。そばにいれば、盾や屋根にはなれるかもしれないからだ。
1年前、持病の定期検診で病院で半日くらい過ごす。検診の予約時間を大幅に過ぎ、少し気分が苛立ってくる。連休明けということもあり、病院内は新患の人でいつもより多め。気分転換に病院内を散歩して、なんとか気持ちを落ち着かせようと試みる。
はじめは院内の売店をふらついたりしていたが、そのうち併設されてる医大キャンパスへ入り込む。大学生はまだ冬休み。人の気配が少ない校舎をぶらぶら歩いて時間を潰す。
病院の外では献血を呼びかける声。大学職員が献血の列を作っている。その横を通り過ぎて再び病院内に戻ってくる。だけど、私の名前はまだ呼ばれない。あまりの退屈さに、だんだん不機嫌になってくる。大きな窓ガラスを背にして寄りかかって待っていると、背中がだんだん熱くなってきた。ちょうど光が差し込む位置にいた私は、窓の外をふと見上げる。目に映ったものは病棟の窓。この角度から見た絵、私には見覚えがある。その瞬間に記憶がフラッシュバックする。
病気で亡くなった「特別な彼女」を思い出すときは、10年以上の時間が経っていても、いつまでもその時のまま。その昔に見た同じ風景は、まるで誰かが勝手に私の引き出しを空けて記憶を取り出したようなもの。あっというまに気分が感傷的になってしまった。それから病院内をゆっくり再び歩き出す。記憶を引き出すように1歩ずつゆっくり足を運んで行く。
目に映る昼間の明るい病院が、私の心の中では、あの頃一緒に歩いた夜の病院の風景と重なり合う。人がたくさんいる現実の待合室の風景も、私の中ではかき消され、記憶が勝手にリプレイされる。用もないのに手術部の前まで足を運んだり、呆然と通路の真ん中にしばらく立ちすくむ行動をしたりと、まるで夢遊病者。自分でも「どうかしている」と思っていた。その場所での記憶が私に涙を浮かべさせる。もう慣れたと思っていたのに、どうやら違っていたみたいでショックを受けた。
風邪を引いたせいか、ここ1、2日ほど指がむくんだようで指が曲がりにくい。指の力が入らず、思うように動かせない。そんな自分の手を待合室でじっと見つめる。もう片方の手で指をなでたりしながら触っている感覚を確かめる。前にもこんなことがあった。でも、なぜあんなことをしたんだろう。そう思うと、記憶が再びフラッシュバックして、瞬間的にわかってしまう。あのときわからなかったことが、どうして今になってわかってしまうのだろう。
彼女が「指に力が入らなくなっちゃうよ」と言って、病気がひどくなるとこんな手になるのと、ちょっとうつむき加減で差し出した両手の甲。それを自分の未来の姿として見た私はその手を受け取った。しばらくの間、お互いの手を撫でていた。そのときの私はよくわからなかったけど触っていたかったんだ。理由なんてないと思っていたのだけれど。
彼女とは病院の中で出会って、それからもずっと病院の中でしかなくて、満足に時間も取れず、たいしたことができなくて、だから、もっと違う時間を、もう一度、出会ったことからはじめたいと思っていた。もう少し無器用じゃなく、もう少し違う出会い方をしたかった。
ドラマのように突然爆発して、 めちゃくちゃやってすっきりする、私にはそんなことは決してない。子どもの頃は、窓ガラスをぶち割ったりしたこともあったけれど、今では片付けるのが大変だとか先に考えてしまう大人になってしまったから。
いい歳の大人になって、しばらくの月日が経っても思わずにはいられない。 もう少し違う出会い方ができていたらと。でも、病院の中でない出会いなんて、あるはずがなかったと、今の私は諦めかけていた。