宗教について考えたこと
「信じる者は救われる」は間違いないけれど、でも、「教え」って、一体何?


「巡礼者の旅」というものがある。はっきりとした目的のある旅で、旅自体も試練というわけだ。ふと、私の旅も思い返してみると、ある目的はあるけれど、なんだかそれはとても小さな目的の旅だな~と、笑いが思わずこみ上げてくる。決して人のためにはならず、かといって別に地位とか名声とか記録をつくるためでもない。まるで意味のないことかもしれないが、私のささやかな目的に近づくためには、これが一番手っ取り早いような気がするのです。

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宗教というものは人が生きる上での指南みたいなものだ。各地を歩いて旅すると、巡礼者と出会うことがある。今までの旅を振り返ってみると、私は計画を練った上で、どっかに行って思いっきり遊んじゃおうっ!という旅行よりも、漠然としたイメージだけで訪ね歩く旅が多いです。猥雑さ漂う街の中を歩き回ることも好きなんだけど、自然の景色を眺めながらのハイキングとか登山(まがい?)の旅も大好きだったりします。体力がない私なのですが、歩くことが好きなのですね。そういった道中では、旅の目的は違うけれど、一時的に巡拝の旅と重なってしまうことがあるものです。

巡礼者と出会うことがあると書いたけど、私の場合はイスラム教のメッカや、キリスト教でいうエルサレムへの道中で、ということはまだありません。生活と宗教が結びついていないとか、無神論者が多いといわれる日本国内だけど、私の行く先々において巡礼者をよく見かけたりするものです。わが国・日本では、札所巡拝というものがあるじゃないですか。名前を出してわかりやすく言うと、四国・八十八所のお遍路さんに代表される巡礼の旅です。各国、あるいは各宗教の聖地・霊場を巡拝することは、その各宗教上の義務だったり年来の誓い。それを果たせば、日ごろの祈願が実現されると信じられているわけです。

巡礼者というわけじゃないのだろうけど、中華圏の人々は我が家のそばにある廟(お寺みたいなもの)だけでなく、今でも行く先々で廟があればお祈りをしていく人々が多いんじゃないかな?というのも、日課として定着しているのでは?と感じることがあったから。2000年の9月に台湾を歩いたとき、道中で知り合った現地の旅人を食事にお誘いしたら、「媽祖様(廟)にお祈りしてから」と言われ、ちゃっかり同行させてもらったことがありました。どこにいても、みんなの神様が心の中にいる。きっと、それぞれの神様が私たちの中にいるということなのかな。

実は私、大学生時代は幼児教育の専攻で、仏教系の学校におりました。その前の学校では、聖書の話を週に1回は聞かされていたりするのです。そういったところにいたせいか、あまり宗教に対して拒絶反応とか、あまりそういうものはないのですかね? 宗教をやっている奴は大嫌いだっ!! なんてことは全然ないです(笑)。

「宗教」と書いてしまうと、我が国では何だか「うさんくさい」イメージではありますが、ここでは「教え」という言葉に置き換えてみましょう。「キリスト教」ではなく「キリストの教え」、「仏教」ではなく「仏陀(ブッダ)の教え」ということです。私が海外に出て思ったことは、「教え」が生活の中に結びついていない日本というところは、ものすごく珍しい国なんじゃないだろうか?ということなのです。生活に結びついていない、というのは大げさな表現かもしれませんが、1日の流れにルールがない、規則・目安がないということです。これは大変なことだなぁと、今の私は思ってしまうのです。

極論になってしまいますが、私は「宗教(教え)=教育」という考え方で、これは人を飼い慣らすためのものだと思っています。なぜ飼い慣らす必要があるのかというと、人はそのままにしておくと人じゃなくて猛獣のようなもの。「教え」によって飼い慣らすことで、初めて人となる。そういう考え方が教育の根底にはあるからなんです。

ひとつの民族や地域が、ある社会をつくり上げるときには「原理・原則」が必要になってくる。それはキリスト教だったり儒教だったりするわけですね。その原理によって人を飼い慣らし、社会をつくり、国家を形成していく。そういったことを笑う日本人は多いけれど、これは、あらゆる集団・グループができ上がるときも同じですね。日本だとモラルだけが寄りどころになるのかな? でも、モラルというものには明確な線引きは存在しない。海の向こうから見ると、日本というところは徹底したルールのない不思議な国なのかもしれません。だから東洋の神秘とか言われちゃうのかな(笑)。

巡礼の旅は、信じてこそ意味があるもので、おそらくこれは教育的効果というやつなんだろうな。願いが大きければ現れる困難も大きくなるといわれ、さまざまな目的で聖地を目指す旅人たちがいる。この目的というものは、突き詰めて考えると、実はみな同じで、究極的には1つにつながってしまうものかもしれない。教えを守って生きてさえいれば、決して悩むこともなく、平穏無事に生活していける。これは教えに限らず、人はある枠からはみ出さないように教育され、そこからはみ出してしまうと「不幸」だと教えられている。多分、これは学校とか社会からだけじゃなくて、親愛なる家族や恋人からだったりするわけだ。

こんなことを書いている私自身、ふと、これも1つの「指南」みたいなものだと気が付いた。でも、いわゆる「教え」と違うのは、なかなか悟れないことだったりします。もし悟っていたら、こんなことは書けないでしょうねぇ。だって、これって迷わせるだけだもの。まだまだ未熟なんだな~、私ってば(笑)。

<2001年8月掲載>