行き違いする会話
お互いの「通念」や「常識」が違うとかみ合わないものなのか?
札幌の友人より、知り合いの韓国人の友人(男性)が帰国するので、お別れ会(のようなもの)を東京に集まってやることに。私は翌朝から仕事が入っているので、2次会途中で去ることになった。残された友人2人(女性)は、韓国人から「どうして結婚しないのですか!」、「結婚しているのに、どうしてひとり旅するのですか!」、「私から見れば、ふたりとも子供ですよっ!!」等々、儒教攻撃(?)を受けたらしい。友人が言うには、長い日本駐在生活中に積もり積もった異文化への違和感が憤りとなり、帰国間際に炸裂したようだとのこと。う~ん、その場に居合わせてなくて非常に残念(笑)。今考えると、「お互いの通念・常識が違う」ってヤツなんだろうなぁ…。
冒頭の部分を読んで、いろいろ感想を持たれる方がいらっしゃると思いますが、まあ、これだけで決め付けないでください(笑)。私がもし言われたら、「ほっとけ!」って思うのだろうなぁ。(←でも、たぶん言わない)この韓国人と直接お話したことは今までに何度かありますが、こういう機会があるというのはうらやましいですね。いろいろ考えさせられます(笑)。これは、外国人と会話するということに限った話しではなく、よく考えると、身近なところでも起こっているわけです。人と人の間には、さまざまな「思い違い・食い違い・行き違い」があるのです。
昔、この韓国人の友人と初めて出会い、喫茶店で2時間ほどお話した後、ちょっとした違和感を感じていたことを思い出します。うまく書き表せそうもないのですが、それを言葉にすると、「誤差」が大きいといった感じでしょうか。目に見える違いなら、諦めもつくのですが、何か精神的な違いを感じるこの感覚は、なかなか解消されるものではありません。待ち合わせの約束の時間を私の方から電話で問い合わせた時から、会話がいまいちかみ合いませんでした。「駅に何時頃の到着をすればよいのでしょうか?」と私が聞くと、「駅に着いたら電話してください」という感じで。この人には「都合」というものがないのだろうかと。
来日したある韓国人歌手の仕事をしたときの話しです。その歌手のほか、バックミュージシャンも韓国人で、スタッフのほとんどは日本人でした。スタッフの一部からこんな声を聞きました。「韓国人は、あれをこうして欲しい、ここにセットを置いてくれとか、やたらと注文が多い。これは仕事だからそのことには文句はない。でも、人に頼み事をする態度じゃない。また感謝することもない。言葉ひとつないなんて、おかしい!」
私は「誤差」を感じる前までは、同じように思っていたのでありました。同じ人間なのだから、根本的には同じはずと、勝手にこれが「基本」だと思っていました。いや、信じてきたと言うべきかな? すべてはこれに尽きるというような感覚でいたのです。ほかの外国人歌手やタレントだって、感謝とかお礼の言葉くらいはあったものでしたから、そういうのが万国共通、人として当たり前だと、そう思い込んでいたのです。
この話しを冒頭の韓国人の友人に話したところ、信じられない答えが返ってきました。ひとことで言ってしまえば、「親しき仲に礼儀なし」ということでしょうか(笑)。「礼儀之国」と呼ばれるのに?と、初めはとても疑ったものですが、礼儀というものは、社会の決まりにかなった上下関係の示し方なのでありました。んじゃ、なおさらおかしいのでは?と、すぐに疑問が思い浮かんだのでありますが、それに答えるかのように、その韓国人の友人はこう言い続けました。
「韓国では、上下関係をはっきりさせ、愛想を決して示さず、それが上の者として古来より良い態度であるとされる。また、下の者もそういう態度をとってこそしっかり働けるというものだと教わった」人間関係というものは、ちょっとした「ひとこと」が潤いをもたらすと、絶対的に思っていたのですが、社会によってはそうとは限らない。韓国社会では上下関係が厳格で、身分によって地位が保証されている。それは仕事でもプライベートでも。極端な言い方をすれば、誰もが平等な関係ではなく対等ではない・対等と思われたくないというような意識がベースにあるのでは?と、今の私はこれをそのように見ているのです。
ある通念をよしとする人たちに、そうでない人たちが自分たちの通念を疑う余地を持たないとき、人は理解し難いと思える体験を、その通念で包み込んでしまう。そして、ただの思い違いが偏見とか差別に結びついてしまうのだろうか。だとすると、こういったことは気がつかない分、かなり大きな差が生じているように思える。
しかし、こういったことは、説明に成功すれば解消できる。なぜなら、知らないだけなのだから。それより問題は、事情がわかったところで、なんら嫌悪を持つことなく接することが出来るのか?ということだ。私は今までのことを考える。そして、それはできないだろうと今は結論付けている。この「行き違い」や「誤差」は、どうしたらなくせるのだろうか。
私にとって気持ちいいことが、あなたにとっては嫌なことであったり、また、あなたにとって良いことが、私にとっては不快だったりするような食い違いに、大きな苛立ちを覚えたり、嫌悪したりということがある。もちろん、これは同じ国・地域、あるいはグループの中でも起こること、いつの間にか、みんな同じだと錯覚してしまうわけだ。
あるいはそのように教育されているのかもしれない。おそらく、私たちの無意識の行動は、そういったやつの効果なんだろうな。だとすると、やはり「行き違い」や「誤差」をなくすことは無理なのか。仕方がないことなのかな……。
ならば、せめてもっと緩やかで、やさしいものに変えることはできないだろうか。これはできそうな気がするな~。「行き違い」や「誤差」には悲しいこともあるけれど、ときにはコレが原因で楽しいこともある。「行き違い」や「誤差」をなくしたら、ひょっとしたら、悲しいことも楽しいこともなくなるかもしれないな。だって、「旅行」とはその連続なのだから(笑)。