乞食は不幸?
物乞いが職業?どんな状態が「不幸」と呼ばれるものなのだろうか?


病気持ちの私はある日、主治医から今後の治療についての話を聞いた。その内容に落胆と不安を感じずにはいられなくて、自分が今まで以上に「不幸」になったように思えた。でも、よく考えたら、ちょっと思い違いをしているような気がしてきた。それは、旅先で出会った乞食とか、ホームレスと呼ばれる人たちは、本当に不幸な人たちなの?とか、学校に通えない子どもたちは本当に不幸なの?という疑問と同じレベル。「不幸」と感じるは何なのだろう?

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いきなりですが、最初に私の見解を申し上げますと、不幸は、不幸である限り、それは不幸でも何でもありません。不幸から抜け出そうとした時に、初めて「不幸」になるのです。ただ、問題は、それが「抜け出せる不幸」なのかどうかということなのです。わかりやすく「乞食」という言葉を使うと、「乞食は乞食として生きていくことを選んでいるうちは、不幸な乞食ではない」ということです。乞食になってしまった、あるいは乞食として生まれてしまったことは不幸かも知れませんが、その状態から抜け出そうとしない限り、その不幸は不幸には成り得ないと思うのです。

以前、東京のある居酒屋で、私よりも旅の猛者である人たちと、旅先で出会った乞食の話で盛り上がったことがありました。その中で特に、インドの乞食話に私はとても興味を覚えました。彼らの話によると、「乞食は生活する上での職業のひとつ」みたいなものだという見解でした。毎日同じ場所・時間にやってきて、そこで乞食をするわけです。旅行者がよく、物乞いに施しを求められるという話はたくさんありますよね。旅行者によっては、かわいそうだから、うるさいからお金をあげたとか、教育上、お金をあげるのはよくない(特に、こどもの乞食に対して言っていることが多い)、ひとりにあげると他の乞食も集まってキリがなくなるとか、いろいろと乞食に対する考え方があるようです。

乞食にお金をあげた方がいいのか、あげてはいけないのか。「乞食も職業」という話を聞いた後、乞食というものに対しての認識は大きく変わりましたね。決して不幸だとは思わなくなってしまいました。だって、乞食を「職業」としているのだもの(笑)。つまり、乞食という者は、少なくとも今は「乞食」として生きて行くことを選んでいるのだと、私は解釈しているのです。たとえ、乞食たちには選ぶこともなく、それしか方法がなかったとしても。

一般的に、人が不幸と感じるのは、他人と比較してどうかということでありますが、そもそも、その人の価値観や幸福観なんて、ほとんどは刷り込まれたものなんじゃないのかな?と私は思うのです。

どんなに学んだとしても、その範囲を超えないように、その人自身は教育されている。それは多分、親とか(自分の大切な人たち)だったりするわけです。そして、その人はその人を生きるように出来ている。本当にその生き方がいいのかなんて、その人がわかるはずもないし、どっちがいいのかなんて選べない。おそらく、こういうことをなるべく感じないことが、いい人生(幸福)なんじゃないかな。だって、悩むことも迷うこともなくなるわけですから(笑)。自分が乞食であることに、何の疑問を持たなければ、それは不幸ではないのです。そして、このことは、乞食であることだけでなく、さまざまなことに当てはまるのではないのかなと。

かと言っても、それでもやっぱり、乞食は困ります(笑)。私の感覚では、「乞食に施し」は悪いことではありません。ですが、いつも乞食に迷います。これは乞食に限ったことではなくて、いわゆる「募金」とか「支援」にも悩みます。つまるところ、お金をあげるという行為に何かしらの嫌悪と優越感が入り混じったものを感じるのです。私の中で天使と悪魔が同時にささやくような感じに近いかもしれません。私の中にいつも対極する私がいます。ひとりは私を許そうとしないし、もうひとりは私を離そうとしないのです。乞食に限らず、私の倫理観はいつも揺さ振られ続けます。そして、この問題について考え続けるのです。抜け出せる問題なのか? なんとかなるのか? かえって不幸になるかもしれないよ、という感じで。

まして、身体に障害を持った乞食に「施し」を求められてしまうと、どうしていいのかわからなくなったり、無邪気にお金を欲しがる子どもに対しても、大きくうろたえてしまったりと、相手の姿に惑わされて、すぐ心を乱してしまいます。この人たちは不幸なのだろうか? そう思っているのだろうか? そう思っていて「乞食」をやっているのだろうか? それを利用して職業としてやっているのだろうか?などなど…。今の私は、結局そのところで判断しちゃったりしています。何かしら、自分を納得させられる材料があれば、ですがね。

最初の結論で、「不幸から抜け出そうとした時に、初めて不幸になる」と書きました。これは間違いなく真実だと思っています。今の状態を変えたいなら、まず抜け出すことを模索しない限り、求める幸せは来ないでしょう。だから、幸せの一歩として、まずは抜け出す「不幸」にならなければと。不幸を悲しんでいても仕方がありません。不幸な時間があっての幸せだからね。

知らないでいる幸福よりも、知って苦しむ道がいい。これを「不幸」とは呼びたくないのです。……なんて言いつつも、その不幸を受け止める勇気も根性もないのになぁ。

<1999年8月掲載>