旅に期待していることは…
旅に出てしまう理由が、少しだけわかったような気がする?


ひとりで旅行に出かけるようになったのは、「強くなりたい」と願ったのがはじまり。内容はどうであれ、ひとり旅ができるようになった今でも、あの頃と比べて強くなれたかどうかはわからない。今の日常に埋もれてしまうはとても怖い。それだけに染まってしまうのは、とても楽なことだと思うけど、いつでも変わり続けていたい。今よりも物事や世界を知りたいし、もっといろいろ見聞きしたい。

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ある日、女性の友人から「産まれたよ~、男の子だよ~」という電話をもらった。
電話の向こうから少し疲れた声が聞こえる。

なぜそんな電話をもらった(というか、もらえた)かというと、ちょうどその前日、私がたまたま持病の定期検診でやってきて、病院の売店でその友人の母親と偶然バッタリ再会。「あら、昨夜からこの病院に入院しているわよ」というような話の流れで、そのまま陣痛がきている友人と顔を合わせていたからなのですが。(実は昔のオトコだったとか、そんな劇的展開はありませぬ~)

そう言えば、友人が入院する数日前、「予定日より早くなるかもしれない」なんてことを電話で私に言ってたような気もするなぁ。妊婦の友人の面会に訪れて、そこで、「産まれたら電話するね」「産まれたら、駆けつけてやる(というか、母親になった姿を見てみたい(笑)」と約束を交わし、その日の夜に出産。友人は約束通り、翌日にキッチリ電話を入れてきたというわけなのです。

電話を切った後、なぜか妙にうれしいと思う私がおりました。だいたい、自分の事ではないのだから、何もそんなに喜ぶ必要はないのになぁーと、自分自身に言い聞かせる。不思議とやたらに会いたい衝動に駆られている。何かの期待感がどんどん大きく膨らんでいる。この期待感はなんなのだろう?と思っても、答えらしきものが見つけられない。

旅行に限った話ではないのだけれど、常に何かに期待している自分が確かにいる。この期待は、いろいろあるのだけれど、つまるところ、自分がひょっとしたら変われるかも知れないということなんだと思う。キッカケがいつでも欲しいのかな? いや、キッカケを自分で掴みたいということか? きっと、キッカケなんてどこにでもあるんじゃないか? 案外、どこにでも転がっているものだと思う。ただ、目には見えないものなんだけどね。

旅行に出かけると、いつも私は道に迷う。果してこの道で良かったのだろうかと、歩きながらよく考えることがある。実は何度も同じ場所を周っていたり、見当違いの方向を歩いていたりして、とかく効率は非常に悪い。そのたびに失笑したり、後悔したりするのだけど、案外それが役に立っていたりする時もある。無駄な時間を過ごしているのだけど、いつの間にかそれなりの地図を、自分の頭の中に描けていたりする。

よく、人生には無限の可能性があるとか、たくさんの選択肢があるっていうやつは、半分くらいは当たりだと思っている。それは、道を選ぶ最初の方の段階の話しで、そういう場面の時はそんな事に気付くはずもない。例えば「木は森に隠せ」とか言うけれど、それと同じで、たくさんありすぎて見えない・見えなくなるものなのだ。

人が道を選ばなければいけないと気付いた時、思い通りの選択肢が必ず現れるとは限らない。まして、願ったままの結果が待っていることなんて、そんなうまい話はないと思っている。でも、道を選ぶ場面は必ずある。その時に現れる道をチョイスするのは、やっぱり自分自身だ。時には選ぶ余地がないケースもある。それでも、たとえ遠回りになろうとも、自分で紡いできたものは大切にしたい。

出産した友人との約束通り、期待感を膨らませながら、私は病院へ駆けつけた。自分でも、何やってんだかな~とか思いながら、友人の赤ちゃんをガラス窓越しに一緒に眺める。私にとっては、産まれたばかりの赤ちゃんの区別なんてつかないのだけど、友人は「輝いてると思わない?うちの子一番って感じ!」などと、幸せオーラ全開で私に言葉をかける。「お、お前さん、以前は子供はちょっと恥ずかしいとか言ってたんじゃないかい?」と、一応聞いてみたけど、まあ、聞くだけ無駄(笑)。なんだか、あっという間に(苦労はしたのだろうけど)友人は目に見えて変わっていた。人間って、変われるものなんだな~と、あらためて実感した出来事だったなぁ。

帰りの電車を待つ間、いろいろな事を思い出していた。私も変われるかも知れない…とつぶやく。ふと、「人生は旅である」とか、「旅は人生である」というような言葉を思い出す。あっ、そうか、私が旅に期待しているものは、そういうものかも知れないな~と、思ったりしたのでありました。

<1999年4月掲載>